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武蔵野航海記

武蔵野航海記

近代資本主義の精神

日本人は良く働くことで定評があります。

「いや会社に長時間いるだけで、働いているわけではない」とか「チャイニーズのほうが良く働く」とかいう反論はあります。

しかしこの「良く働く」という言葉の中には、「とりあえずこんなに一所懸命働く必要がないのに働く」という意味があると感じています。

たしかインドだったと思うのですが、従業員の勤労意欲を上げるためにアメリカの企業が日給を二倍にしたそうです。

そうしたら労働者の出勤率が半分になったそうです。

働くということは決して楽なことではありません。

当面生活に必要なお金が手に入れば、それ以上働かないというのが生物としてはむしろ自然な行動だと思います。

インドやチャイナなど最近経済発展が著しい国で、一部の人たちは非常に良く働くようです。

これには三つほど理由があると思います。

一つはアメリカ流のビジネス感覚を身に着けたエリート達の新しい感覚です。アメリカ式の労働スタイルを身に着けたということです。

一つは極端な貧しさから脱出するチャンスを逃さないということです。

貧しい農民達は、都会で稼いで故郷に家を建てたり、事業資金を作ったりするために必死に働いています。

今ひとつは安全保障の為です。

社会が不安定な国で顕著ですが、生き延びるためにはお金が必要だという考え方です。

現在チャイナの富裕層は、毎年200万人が国外脱出しているそうです。

子女をカナダやオーストラリアなどに留学させ就職させて永住権を取得します。

その子女を頼りに家族が移住するのです。

日本に留学するチャイニーズもその種の者が多いと思います。

貧しく社会が不安定な国の場合で良く働くのは、明確な理由があるのです。

当初の目的が達せられると働かなくなります。

マルクスは資本(お金)と技術があれば経済は発展すると考えました。

それを信じたのがスターリンです。貧しかった革命直後のソ連は農民に過酷な税金を課し、その金を工場建設と技術開発に投入しました。

農民から穀物を安く買い上げ輸出して外貨を稼いだのです。所謂飢餓輸出です。

これによりウクライナでは800万人が餓死したそうです。

この政策によりソ連は経済的に発展しましたが、それも20年ぐらいしか続きませんでした。

そして今は「元の木阿弥」になりました。

毛沢東も真似をして「大躍進」という政策を打ち出しましたが、数千万人の餓死者を出しただけでした。

何かが欠けていたのです。

労働そのものに価値を見出し、経済発展を遂げた国はプロテスタントの国と日本だけです。

ドイツの有名な社会学者マックス・ウェーバーは今から百年前に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を書き何故プロテスタントは良く働くかを分析しました。

イエス・キリストは、神を信じればお金が入り健康になるなどという現世利益は一言も言っていません。

むしろ貪欲はいけないといったのです。

しかし人間は弱いもので、すぐ悪いことをします。

それを厳しく攻め立てて「お前は絶対に天国へはいけない」と言ったら、かえって逆効果で教会を離れてしまします。

ヨーロッパ全土を支配したカトリック教会は、信者を繋ぎ止める為に秘蹟(サクラメント)を発明しました。

洗礼、懺悔、結婚、正餐など七つの儀式を行えば犯した罪が許されるとしたのです。

免罪符も同じ考え方から出ており、聖人の功徳は豊かで他者にもわけ与えることが出来るという理屈になっています。

ルターは秘蹟や免罪符が聖書に根拠を持たないとして騒ぎ出しました。

これが宗教改革です。

カトリック教会も「まずいな」と感じていたのでしょうか、聖書の現地語訳を禁止していました。

もっともプロテスタントも洗礼と正餐をサクラメントとして認めているので、神学的にどう説明しているのか私自身もはっきりしていません。

一方、中世カトリック教会も修道士には厳格なキリスト教の解釈を適用しました。

中世カトリック教会はダブルスタンダードだったのです。

宗教改革とは、一般信者に甘くプロには厳格なダブルスタンダードを、厳しいほうに統一した運動という見方も出来ます。

宗教改革後のヨーロッパは、より厳格なキリスト教社会になったというのも事実です。

「中世を脱し近代になると、ヨーロッパ人は神から自由になり人間性を取り戻した」などと日本の本では書いていますが、これは現象のほんの一面だけのことです。

中世カトリックの修道院の原則は「行動的禁欲」です。

禁欲というと日本では「酒断ち」とか「肉魚を食べない」とか、何かをしないという意味です。

しかしストイック(禁欲的)というのはギリシャ哲学のストア派から来た言葉で、感情的にならずに理性的に行動するという意味です。

怠惰な感情に流されずに理性的に信仰生活を送れというニュアンスになります。

最後の審判で全ての信者は最終的な神の裁きを受けます。

聖書には最後の審判が何時行われるのか書いていません。

そこでカトリック教会は「神の日は近い」と信者を慌てさせていました。

今夜かもしれない。明日かもしれない。

「もう時間がない。今こそ神の意思にかなった生活をしなければ、最後の審判に間に合わない」とせかしたのです。

最後の審判がすぐなので時間がありません。

神の意思に適った生活をするには、信仰に全力投球しなければならず、余計なことをしている暇はありません。

これが中世カトリック修道院の「行動的禁欲」です。

怠けることなく理性的に神の望む生活をするという意味です。

修道院は、働くことが神の意思に沿うと信じていました。

修道士達は、わき目も振らずに働きかつ祈っていたのです。

この修道院のルールが宗教改革によってプロテスタントの一般信者にも適用されるようになったのです。

プロテスタント教会では世俗の仕事こそが神から与えられた使命であるという思想が強調されました。

労働こそ救済なのです。

キリスト教は利潤追求を禁止しています。

しかし、本来のキリスト教では外面的な行動の結果ではなく、内面的な動機を重視します。

「金儲けは悪い」というのは、儲けたこと自体が悪いのではなく貪欲が悪いのです。

労働をすること自体は神の意思に沿うのです。

従って金儲けを目的とせず一所懸命働いた結果のお金であれがかまわないのです。

隣人が必要としているものであればどんどん売れます。

隣人のためになることをすることはいいことです。

正常価格で売り適正利潤を得ることは神の意思にかなうのです。

最終的には利潤を挙げるのは、隣人の欲する良いサービスを提供していることの証拠だと考えられるようになりました。

中世の修道院というのは、大組織で様々な生産活動を行っていました。

信心深い中世のヨーロッパ人は教会に土地をたくさん寄進しましたから中世の修道院はヨーロッパ最大の土地所有者だったのです。

そして修道士は「行動的禁欲」で懸命に働きましたから、その経済力は大変なものでした。

また修道院の持っていた技術は当時最先端のもので、修道院が開発した技術が俗世界に普及していったのです。

今でもヨーロッパで一番品質の良いワインは修道院起源の農園で作られているそうです。

修道院の経済活動が活発になってくると世俗との取引も重要になってきました。

世俗との取引の時に修道院は契約を守らせるために神を利用したのです。

もともと一神教の社会では契約とは神と人の間で結ばれるものでした。

例えばジョージと花子の結婚を例にあげます。

ジョージは花子を妻にするという契約を神と結びます。

花子はジョージを夫にするという契約を神と結びます。

牧師は「汝は花子を妻にするか?」とジョージに質問しますが、これは牧師が神になり代わって聞いているのです。

ジョージが「はい」と答える相手は神であって牧師ではありません。

ましてや結婚式に参列している親類縁者や友人達ではありません。

ジョージと花子という人間同士の契約ではないのです。

神との契約は取り消しできませんから、離婚はダメなのです。

カトリックの場合は、結婚はサクラメント(秘蹟)の一つであり、極めて重要な契約なので、その破棄(離婚)は絶対に認められないのです。

プロテスタントの場合は、結婚はサクラメントではないので一定の条件で離婚が認められるのです。

この神と人との契約という発想を、修道院と世俗とのビジネス契約にも準用したのです。

売主と買主の合意した内容を、売主は神に守ることを誓い、買主も同じ内容を守ることを神に誓うのです。

今でもヨーロッパやアメリカの契約書は両当事者のほかにWITMESS(証人)がサインするのが通例です。

この証人とは、神と人とが契約を結んだ現場に立会い目撃した人がなるものだったのです。

このように神を利用することにより、キリスト教社会では契約は絶対に守らなければならないという倫理が確立されたのです。

契約を守るというのは生産活動で極めて大切です。

自動車一台を作るのに何千という部品が必要です。

それが効率よく計画的に作られるには、多くの部品メーカーが契約で決められた時期に、契約どおりの品質の部品を納品しなければなりません。

またキリスト教では人間は神が創ったものであり、人間を所有しているのは神です。

神から見れば人間は家畜と同じです。

家畜が生み出したものは主人のものです。鶏が産んだ卵は主人である人間のものです。

これと同じで人間が生み出した富は主人である神の物です。

従って他人の所有物を侵すのは、神の所有権を侵すことになるわけです。

人間が働いて蓄積した富は、実は自分のものではなく神のものです。

いずれは神に返さなければならない物と考えるのです。

他人のものですから大切に預からなければなりません。

そこから節約を美徳とする倫理が生まれてきました。

この節約というのは非常に大事です。

節約という考え方が無いと、使うほうに忙しくなってしまいある限度以上の蓄積が進まないのです。

このようにしてキリスト教の信仰から、近代資本主義に必要な「勤勉」「契約の遵守」「所有権の確立」「資本の蓄積」という考えが出てきたのです。

カトリックは一般信者を甘やかしたので、この精神も希薄ですが、プロテスタントは厳しくキリスト教の原則を守りました。

プロテスタント諸国の経済が大発展したのはこの為です。

外資を呼び寄せて資本を準備し、その金で外国から技術を買ってきただけでは、その国の経済はブレークスルーしません。

ある国のファンダメンタルズとはこういう国民の資質の総合評価であると思って間違いありません。

「勤勉」「契約の遵守」「所有権の確立」という資質は生産活動以外にも必要です。

戦争に勝つには司令官の命令を達成しようとして勤勉に努めなければなりません。

役人に賄賂を渡さないと仕事をしないというのは、一般の人の所有権の侵害です。

近代国家とはこういった国民の資質を前提に成り立つものです。


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